お酒飲んだついでに考えたこと。

mixi日記に書いたことほぼそのまんま。


過去のmixi日記を読み返すと、確かにそこにあったエピソードを思い返すことができる。
Flickrにあげてる写真を見ると、確かにそこにあったエピソードを思い返すことができる。
はてなダイアリーを読み返すと、確かにそこにあったエピソードを思い返すことができる。
Twitterの過去発言を読み返すと、確かにそこにあったエピソードを思い返すことができる。
自分の周りのものを見渡すと、確かにそれに関するエピソードを思い返すことができる。


そこにないこと。今感じていること。後に残すことができなければ、思い出すことは決してない。
思い出すには何かきっかけが必要だ。日付を言っただけでその日のことを思い出す超人がこの世にはいるが、ほとんどの人にはできない。日付を意識しながら生活している人はほとんど居ない。
思い出さない記憶は徐々に脳内から消えていく。これは生理現象だ。
今、まさに今してることが次々と記憶からかき消されていく。このままでは思い出せない。恐ろしい。
残さなければ。後から見返せる形で。恐怖が迫ってくる。そこに残せと。何者かが僕を攻め立てる。
でも考える。本当にそれは恐ろしいことか?攻め立てるのは誰か?


思い出せることはよいことだろうか。考える。
楽しかったこと、うれしかったこと。そういうのは思い出してまた楽しみ、喜ぶことができる。
つらかったこと、悲しかったこと。そういうのも思い出してまた苦しみ、傷ついてしまう。
思い出して、過去の自分に浸ると、昔はよかっただとか言う。
逆に今の幸せに感謝することもある。
思い出は、このように自分の感情を抑揚させる。
これからの自分の行動指針となる考えを練ることができる。
脳科学的には、思い出すことで思い出す能力が向上する。
やはり、思い出すことはよいことである。
では思い出せるきっかけを残すように攻め立てるのは誰か?悪ではない。これは善だ。確信する。


しかし、もう少し考えると、思い出せることの真髄はさらに深いところにあることに気づく。
思い出したら何をするか。浸る。泣く。ほくそ笑む。語る。そう、語る。
語るところに思い出の拡大を感じた。語り継ぐ。継ぐ。
継ぐところに思い出の拡大を感じた。
思い出は共有することで当事者の死後も残るのである。
人間は人の間と書いて人間である。先月教会で聞いた話では、人間を"Body and soul in community"とするべきだと言う人が居るらしい。
語ることで、語ったというきっかけができる。これは自分だけでなく聞いた人のきっかけにもなる。情報は語った人数が多いほど持続期間が伸びる。語り継ぐことで何世代もの時代に残すことができる。
これは思い出はただ個人で残し、個人で思い出すだけでは脆いことを示している。
これは非情な結論を導き出す。残してすらないのに自分以外にも語るなんて到底できるはずがない。
考える。自分で残さずに相手に残すことは可能か?
常に語り続ける。それだけか?
自分の行動を記録するものがいる。これもそうだ。
もっとたくさんあるだろう。
そう考えると、思い出す能力は長い目で見たとき、それほど重要でないことに気づく。
いや、思い出す能力というより、自分のために思い出すきっかけを残す能力というべきか。
他の人が思い出すきっかけを残すことが重要なのだ。


さらに思うことがあるが、今日はここまでにしておきます。